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自分ではそれほど感じないのですが、わたしのこれまでの道のりは、かなり変わっているみたいです。「波乱万丈だね〜」と言われることもあります。
これは、わたし自身がそれほど変わっているとは思わないのに、「変わった人」と言われるのと似ていますね。
確かにいろいろな病気をしたし、挫折も何度も経験しました。でも、そのなかでいろいろなことを学び、少しは成長できたかな、と思います。
もしも、今、同じような悩みを抱えていらっしゃる方がいらして、わたしの体験が少しでも参考になるのなら、と、思い出をひもときながら書いてみようと思います。
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Personal History
◆手作り派 → ロック少女 → デザイナーを目指して◆
わたしは、名古屋で生まれ育ちました。
子どもの頃から、絵を描いたり、手でものを作るのが好きな女の子でした。とりわけ洋服のデザイン画を描くのが好きで、小学6年生の頃の作文には、「デザイナーになりたい」と書いていたほどです。(ちなみに2番目は「作家になりたい」でした。)
友だちの誕生日には、いつもなにか手作りのものをプレゼントするのが楽しくて、編み物も縫い物も大好きでした。
ところが、中学時代はテニス、高校時代はそれに加えてロックにはまってしまいます。
音楽関係のジャーナリストに憧れ、東京の大学に進学しようとしますが、父親に却下されてしまいました。
そこで、東京の大学に転入が有利な地元の短期大学に進学することにしました。
ところが、ブリティッシュ・ロックに夢中になり、ガールバンドを結成して(ボーカルを担当)、音楽活動にのめり込んでしまい、大学転入の夢は、フェイドアウトしていってしまうのでした。
このとき以来、歌うことはわたしのライフワークのひとつになっています。(今はジャズを歌っています。)
卒業後、すぐにでもロンドンに行きたい気持ちを押さえ、次になにをやるのか、やりたいのか、を模索しました。
そして、ただロンドンに語学留学しても、その後なにをやるのかが明確になっていなければ、あまり意味がないのでは、と考えて、子どもの頃の夢だった、デザイナーになるための勉強をすることに決めました。
しかし、ここで、また父親に猛反対されてしまいます。
「わたしの人生なんだから、自分のやりたいことをやらせて」
と、涙ながらに訴えたのでした。
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◆東京、そしてイギリスへ◆
学費と当面の生活費を自分の貯金でまかなうことにして、文化服装学院に入学しました。専攻科目を選ぶ際、とくに深い考えもなく「人数も少なそうだし、なんとなく」ニッティング科を選択。それが今のわたしのプロフェッションになっています。人生って面白いですね。
1年目の冬休みに留学中の友人を訪ねて、ロンドンに旅行。イギリス国内とパリ観光もこなし、すっかり魅せられてしまいます。絶対にまた来たい! 今度は長く滞在したい! という気持ちがふくらみます。
そして、就職シーズン到来。希望していた会社に落ちたのをきっかけに、東京での就職を断念。名古屋に戻り、渡英のための資金作りをすることにしました。
名古屋に戻ったわたしは、アルバイトをしながら、手作りニットと小物の製作販売をスタートさせました。この当時の作品は、「毛糸だま」(日本ヴォーグ社刊)でも紹介されました。
そしてなんとか資金を作り、イギリス留学を計画。このときも、両親(とくに父親)の猛反対に合いましたが、ここでもまた「わたしの人生なんだから」と
希望を通させてもらいました。
そして憧れのイギリスへ。まずはブライトンの近くのホーブという街の英語学校に入学します。けれど日本人が多すぎて勉強にならないと判断し、期間を短縮してロンドンに移動。セント・マーティンズ・スクール・オブ・アートでのサマーコース受講後、同校の新学期が始まるまで、ヨーロッパとイギリス国内ひとり旅に出ました。
ヨーロッパは、イタリア(ローマ、フィレンツェ、ミラノ、ベニス)、オーストリア(ウィーン)、ドイツ(ミュンヘン)を語学学校で知り合った友人の家に泊めてもらったりしながらのひとり旅です。
イギリス国内は、スコットランド(エジンバラ、アラン島)、イングランド(レイクディストリクト、デヴォン、コーンウォール)、ウェールズ(クランドゥドノ)などを、ブリットレイルパスを駆使してこれもひとりでまわりました。
ひとり旅の良いところは、旅先で、地元の人や自分と同じような旅行者の人との交流が持ちやすいことだと思います。いろんな方に、本当に親切にしていただきました。
この旅行はあまりにも素敵な思い出がありすぎて、ここでは書ききれませんので、別の機会にゆずりたいと思います。(もし、「旅行の話しが聞きたい!」とお思いの方はメールくださいね。)
そして憧れのアートスクールでデザインの勉強です。住むところも、イギリス人デザイナー3人とフラットシェアをしていましたので、最初は本当に言葉に苦労しました。ネイティブの英語がなかなか聞き取れないのです。でも、わからないながらも一緒にいるうちに、なんとなく聞き取れるようになりました。
日本とは違い、ユニークさを良しとする、良いところを誉める教育スタイルもとても気に入り、学ぶ楽しさを実感する毎日でした。しかし、そんな生活も資金が続かず、残念ながら1年で終わりを告げたのでした。
せっかくだからロンドンで働きたい、と先生に相談したところ、「日本人だから」と、日本人デザイナーのブランドをレコメンドされ、連絡先を教えてもらい、コンタクトをとりました。
折りしもロンドンコレクションで猫の手も借りたい状況だったため、アルバイトとして雇っていただきました。ここでロンドンコレクションを経験します。
このシーズン、当時はまだロンドンでコレクションを発表していた憧れのジョン・ガリアーノ(今をときめくクリスチャン・ディオールのチーフデザイナーです)のコレクションを見ることができて大感激! ナオミ・キャンベルのキャットウォークを生で見たのも初めてでした。
彼のアトリエでアルバイトしていた クラスメート(なんと、今は大出世のジュリー・バーホーヴェンです。彼女は、ルイ・ヴィトンとの仕事で有名になり、今はGIBOのチーフデザイナーをしています)がチケットを取ってくれたんです。
ジュリーは、プレスキットなど、ノベルティグッズもいろいろとプレゼントしてくれました。ジョンは、とても気さくな人で、気軽にサインもしてくれました。わたしは彼のサインを2枚持っています。
その後、アルバイトをしていたブランドのショーに出演していたモデルさんに自分の作品のモデルをお願いして、カメラマン、ヘアメイクを探して、作品撮りをしました。そのブックを持って、雑誌社、お店をまわりましたが、ビジネスには繋がりませんでした。イギリスで就職するためのワークパーミットも取れず、曇りがちなロンドンの空が憂鬱になってきたこともあり、帰国することにしました。
帰国後、著名なデザイナーさんのデザインオフィスで働くことになりました。コレクション以外にもショーの多い華やかな職場でしたが、テイストに馴染めず、退社することにしました。
その後、イラストを描いたり、知人の紹介で、デザイン画のコレクションを当時のバーニーズ・ニューヨークのバイヤーさんと社長さんに見ていただいたりしましたが、当時のわたしは、まだ生産背景をしっかりと持っていなかったので、これもビジネスにはなりませんでした。
その後、なかなかやりたい仕事にめぐり合えず、あまりやりたいと思えない仕事を続けていたところ、1年半後に体調を崩し入院。今度は肋膜炎です。好きではない仕事をやるのは、本当に身体に良くないことのようです。そして、周囲にも迷惑をかけることになりますから、自分に対しても周囲に対しても、良くないことなんですね。
2ヶ月ほど入院し、仕事に復帰したものの、体がついていかず、休職して、しばらく名古屋に戻り休養することにしました。
この間は、ずっと微熱がとれず、辛い思いをしました。これからどうしよう、という思いにもかられました。なぜ、自分はこんなにもストレスに弱いんだろう? ただ、わがままなだけなんだろうか? などなどいろいろ悩みました。でも、やはり、「ファッションの仕事がしたい」と思い、東京に戻ります。
知り合いの紹介で、今度は良品計画(無印良品)の仕事をすることになりました。ファッションというには、デザインはいたってシンプル、色もモノトーン中心のコレクションでしたが、店鋪運営のことなど、いろいろ勉強になりました。
そこで知り合ったメーカーさんの協力を得て、いよいよ独立することになりました。
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◆キラ・カリーヌと神様の贈り物◆
自分のオリジナルブランド、「キラ・カリーヌ」のスタートです。
最初は、わからないことばかりで、まさに無我夢中でした。デビュー展示会も、友人たちに手伝ってもらい、まさに手作りの展示会です。ラッキーなことに、業界紙にも取り上げていただき、発注してくださる取り引き先もできました。
そして2シーズンが過ぎた頃、また身体に変調が。なんと、今度は悪性の腫瘍(癌)ができていて、すぐに手術が必要とのことでした。
ショックで、一瞬頭の中が真っ白になりました。
でも、80%の確立で治る、ということだったので、気を取り直し、一般向けの医学書を読みあさり、それに従って、セカンドオピニオンを求め、手術を決意。その後、放射線治療、化学療法も受けました。
この時期に、人生について、なにが幸せなのか、について、ものすごく考えました。辛い、というよりも、「なぜ(わたしが)?」という思いが、自分の中に渦巻いていて、それは「悲しみ」というよりも、「怒り」に近い感情だったかもしれません。この思いは今も完全には癒されていないかもしれません。そのときに流されなかった涙が、今もまだ胸に沈んでいるかもしれません。
そして、それは決して悪いことではなく、わたしの宝物だと思っています。以前はネガティブなものは全部良くないもので、排除すべきもの、みたいなことを思っていましたが、人間はどこかにネガティブなものを抱きつつ、成長していくものなのだ、と今は思っています。自分がネガティブなもの(悲しみや怒り)を持っているからこそ、人の痛みやネガティブな面を受け入れることができるのだと思います。
ネガティブなものは、自分を磨くための神様からのプレゼントなのだと思います。
正面から向き合って、それを認めることができれば、宝物になります。
そのおかげで、スピリチュアルな世界にもとても興味を持ちました。なぜ、自分がこんなに病気をわずらわなくてはならないのか? その答えが欲しかったのです。そんな時、出会った本の中に、「わたしたちは、この物質世界に肉体を持って修行に来ている魂で、その肉体に障害や病気を与えて生まれてくるのは、チャレンジャーの魂なのだ」(「生きがいの創造」飯田史彦著)という一文を見つけたときは、思わず涙が出ました。とても救われた思いがしました。精神世界系の本では、病気は自分が引き起こしている、という説が多く、実際、これも真実なのですが、今でこそ素直に受け入れられますが、そのときのわたしにはすんなりと受け入れることはできませんでした。余計に自己嫌悪に陥ってしまうだけだったからです。それよりも「わたしはあえて自分に試練を与えて生まれて来たチャレンジャーなんだ!」と思う方が、いろいろな辛い出来事にも立ち向かっていけるような気持ちになれたのです。
スピリチュアルなことを知るに従って、「手術しなくても治す方法はあったのでは?」という疑問も湧いてきました。でも、わたしは自分の決断を後悔していません。そのときのわたしには、それを経験することが必要だったのだ、と思っています。
たしかに、スピリチュアルな治療法で、癌が治る方もいらっしゃると思いますが、どちらか(現代医学とスピリチュアル療法)に片寄ることなく、自分の気持ちと、病気の進行状況をしっかりと見つめて、選択していくことが大事なんじゃないかと思います。
ちなみに、手術の際、「できれば、(メスをいれるのは)このあたりに、こんなラインでお願いします」と言って、お医者さまに「さすがデザイナーですね」と言わしめたわたしです。手術後には、逆にお医者さまから「どうです? きれいに仕上がったでしょう?」と言われてしまいました。
セカンドオピニオンを求めたときにも痛感しましたが、この病気で学んだことは、自分が本当に知りたいことは、聞かなければわからないし、またして欲しいことは、口に出して言わなければ伝わらない、ということです。そうしていく中で、相手との信頼関係が育まれていくんだな、と思いました。ひとりよがりの思い込みは邪魔になるだけだな、と。
誰かが 「聞いてくれなかった」、「してくれなかった」のではなくて、自分が「聞かなかった」、「して欲しいと言わなかった」んですね。ちょっとした疑問や要望があるときでも、ついつい人に遠慮しがちだったわたしは「まあいいか」で引いてしまうところがあったんですが、さすがに「癌」という病気の前では、遠慮している余裕はありません。決して周囲に対して思いやりを欠いてもいいということではありませんが、自分のニーズをちゃんと把握して周囲に伝えるのは、自分の責任なんだ、と気付いたんです。
そして、回復後、夢だったパリコレクションのサロン(合同展示会)に出展することになりました。ロンドンにいた頃にお世話になった知人の紹介で、「ワークショップ」というサロンにコンタクトを取ったところ、出展許可をいただけたのです。
当時、なにもかもひとりで運営していたわたしですが、さすがに、パリにひとりで行って、展示会を行うのは無理です。そこで、友人のスタイリストに声をかけたところ、二人のスタイリストが同行してくれることになり、その話を聞いたライターの友人もそれに加わることになりました。
友人たちのバックアップで、またも手作りの展示会です。
ブースのディスプレイも可愛く仕上がり、来場者にも好評のようでした。わたしのコレクションはカラフルで、日本人ぽくない(フランス人かスペイン人みたい)とよく言われるのですが、このときも、日本人とは思われていないようで、日本人かな?と思われる方に、こちらから「こんにちは」と声をかけるとびっくりされました。ニューヨークから来ていたバッグデザイナーの女の子とは、お互いの商品が気に入って、友だちになりました。パリのプレスオフィスも決まって、雑誌にも度々掲載されるようになりました。
その後も、細々とですが、年2回のペースでコレクションを発表していきました。その売り上げだけでは生活していくのには不十分だったので、アパレル会社の企画の仕事を外注としてやらせていただいていました。
そんなとき、大口の取引先との取り引きが停止になってしまいました。50%近い売り上げを頼っていた取引先だったので、まさに大打撃でした。それから何シーズンか続けましたが、売り上げが減ることはないにしろ、伸びることもなく、続けていくことに疑問を感じ始めました。
折りしも、SPAの台頭で、市場の状況もキラ・カリーヌをスタートした頃とはまったく変わって来ていたのです。すでに6年の歳月が流れていました。「ひとりでこつこつ好きなものを作って、好きな人が買ってくれれば」などという時代ではなくなっていたのです。自分には、現在のマーケットでの競争力がないことを認めるのは辛いことでした。でも、そんなことをぐずぐず悩んでいる間に、またしても、身体が悲鳴をあげたのです。
註)SPAとは、Speciality store retailer of Private label Apparel、の略。製造小売り。 製品の企画・製造・販売までを一貫して手がけること。
その頃、いろんなアパレルの仕事を掛け持ちしていたわたしは、風邪気味だったのに、無理を重ねてしまい、ある日、朝起きると声が出なくなっていました。息しか出ないのです。声帯が振るわない感じ、とでもいうのでしょうか。慌てて、耳鼻咽喉科に駆け込みました。診断は風邪、ということで一安心ですが、声が出る様になるのに、1週間くらいはかかったと思います。そこで少し良くなると、よせばいいのに、また無理して仕事をしてしまい、今度は高熱にうなされました。ベッドに横になって、いろいろ考えました。
仕事をしようとすると、身体が「No!」と言う。ということは、「今は仕事をするな」ということなのかもしれない。ここで、一旦、白紙に戻ったほうがいいのかもしれない、と思いました。
決断は簡単ではありませんでした。でも、まず体調を整えるのが先決、と思い(高熱は下がったものの、微熱がずっと取れず、思ったより、身体が弱っていたのです)一旦、実家に戻ることにしました。
東京を引き払うかどうか、はかなり悩みましたが、ここは、やはり白紙に戻す、ということで、引き払うことにしました。エネルギーの入れ替えです。
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◆帰郷、そしてまた東京へ◆
現在、実家のある小牧市は、名古屋のベッドタウンです。
引っ越して1ヶ月ほどは、ほとんど寝ていました。微熱がなかなか取れず、イライラしたりもしました。
少し元気になってきてからは、東京でやっていたアパレルの仕事を、やらせていただける範囲で再開しました。ありがたいことです。空気のきれいな田舎に暮らし、月に1〜2回打ち合わせのため上京するペースが、結構気に入りました。
そんな時、東京の友人から、あるアパレルの仕事をしないか、と誘われました。話を聞いてみると、どうやら常勤での仕事のようで、となると東京へ引っ越さなければなりません。
当時、地元の第3セクターの仕事もしていたので、東京へ引っ越すことは考えもしませんでした。
ですが、その友人が「良い会社だから」と勧めてくれるので、もし先方が気に入るようなら、とプロフィールを送っておきました。しばらくして、先方が会いたがっている、との連絡があり、上京の際にお会いすることになりました。
お会いしてみたところ、とても気に入ってくださっているようで、非常勤でもかまわないということでした。それでも、やはり、東京に引っ越さなくてはなりませんし、今抱えている仕事のこともあります。
でも、動く時というのは、なにか見えない力が働くものなのですね。 地元の仕事は辞めることにして、東京での部屋探しを始めたところ、思いがけず素敵な洋館(室内はロンドンで住んでいたエドワーディアンスタイルのフラット(マンション)に似ています)がみつかりました。環境も、以前住んでいた都心とは違い、郊外なので緑が多く、しかも駅から近い、と良いこと尽くしです。部屋の窓からは、お隣の洋館と、大きな木が見えるので、まるで外国にいるような気分になります。
そして、最初は反対した家族も、気持ち良く送り出してくれました。
ここまで読んでくださっている方ならお気付きかと思いますが、わたしは、これまでに何度も、上京 or 渡英→帰郷を繰り返しているのです。病気がちで、仕事は不安定、とくれば、家族の心配はいかほどのものでしょうか? そのときは、それから始まる新しい生活のことで頭がいっぱいで、そういったことを思いやったり、感謝する気持ちが欠けていたように思います。こうしてこれを書いている今では、
素直に家族への感謝の気持ちが湧いて来ます。こんなに自分勝手でわがままな娘を、今日まであたたかく見守ってくれた家族にはいくら感謝しても足りないくらいです。彼等のバックアップがあればこそ、今のわたしがあるのです。
そして、
週3日、新しい仕事場へ通い、あとの2日は、自宅で今までの仕事を続ける生活が始まりました。「通勤」から何年も遠ざかっていたせいか、身体が慣れるまで、しばらくかかりました。
そして、新しい生活に慣れるに従って、
「自分が本当にやりたいことはなんだろう?」という気持ちがムクムクと沸き上がって来ます。
「ファッションに関わること?」
「Yes!」
「また自分のブランドをやりたい?」
「う〜ん・・・」
そうなんです。自分のブランドを再開することは、やりたくない、といえば嘘になりますが、自分の中では、もうそれほど大きな意味を持たなくなっていたんです。
なにがやりたいのか、と突き詰めて考えていったとき、今まで、どんなに多くの人に助けられて、「やりたいこと」をやってきたか、に気付きました。今度は、「やりたいこと」で多くの人のお役に立ちたい、と思ったのです。
でもどうやって?
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こんな部屋で暮らしてます |
それを毎日考え続けました。まずは、今やっている仕事も「やりたいこと」なのだから、そこでお役に立つことを心がけました。そして、辿り着いたのがこのHPを作ることです。本当に人のお役にたてるものなのかどうか、まだわかりません。でも、そんな思いで作っています。そして、みなさんのフィードバックがあれば、どんどん変化し、進化していくと思います。
ほんの少しでもあなたの心をあたたかくすることができれば、
それがわたしのハッピーです!
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Profile
本名:古田広美
愛知県出身
南山短期大学 人間関係学科卒業
文化服装学院卒業
渡英 St. Martin's School of Art にてデザインを学ぶ。
帰国後、(株)コシノジュンコ・デザインオフィス、(株)良品計画を経て、自らのブランド「キラ・カリーヌ」を起ち上げる。パリ・コレクションのサロンに出展。BEAMS等のセレクトショップにて商品を展開。
フリーランスデザイナーとして、(株)エイネット、(株)ルック等、アパレル企業の企画に携わる。
04年に本サイトを起ち上げ、06年にファッションセラピーのサービスを開始。
デザイナー、ファッションセラピストとして活動する一方、ジャズ・ボーカリストとしてもライブ活動を展開 |
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